regulus11’s diary

一人の人間の戯言です。どう受け取っても構いません。

正体不明の愛言葉

好き。好き。これも好き。好き。すき。すき?

                            2024 04/20

 

 生まれてかれこれ20年が経つ。私という人間については多少なりとも理解を深めた自信はある。何が好きで何が嫌いか。興味関心、信条、志。深めた気でいた。だが、自己理解をし終えたと感じていた矢先に、ふと感じるもがあったのだ。それは、“私の好きは本当に好きか?”ということに。

 『好き』の定義については、「対象を無条件に好意を持つこと。」と定めている。しかしながら、定めたのにも関わらず揺らいでいる。なぜなら、『好き』と感じたその先に何の感情も抱いていなかったからだ。その場限りの衝動に駆られただけと考え、別の『好き』について考えてみた。なるほど。この『好き』に関しては、ずっと好きであるという先がある。結論言うと、私の中にある『好き』は全部が全部、『好き』ではないらしい。私の中には『好き』と『嫌い』だけでなく、あえて言うなら第3の感情、『嫌いでも好きでも無いが、手元においておきたい』がある。言い換えると、『都合が良い』だ。

 例えば私には好きな人がいた。確かに『好き』と感じていたが、それまでだ。その人の在り方が好きというわけではなくて、私を引き立てるほどの美麗さがあったから欲していた。例えば好きなゲームがあった。その内容はとても感動的で、すごーくかっこいい。その世界に憧れている姿を見せれば、私はかっこよく映るのかと都合良く考えた。

 

いくら飾り立てようとも、実を伴わない虚ろな人間性しか出来上がらない。

私の『好き』は自身を飾り立てるためだけの手段でしかなかった。

様々なモノに憧れていた日々は嘘に満ちていた。

全部でないとしても『好き』が虚飾であった。

 

そう気づいたときには何も残っていなかった。他人の目に映る自分の姿だけを残して。

自分の性格との付き合い方

        自分の性格との付き合い方            

                               2024,04/12

 傲慢。それは驕り高ぶり他者を見下すこと。キリスト教の教義において、人間が克服すべき七つの大罪に分類される。現代の日本では、人を馬鹿にする人間として忌避されがちだ。かくいう私も傲慢な性格を有しており、自分と人との付き合い方に悩んでいる。無意識というべきか、心の中で相手が自分より上か下か見定めないと安心できない。確かに人に上も下も無く、あるとすればそれは組織的なコミュニティの関係という場合だけであろう。無論、上か下かで人間関係を構築するなんておかしな思考だと理解している。だが、外界で人と接する度にペルソナで衝動を抑えているが、会話するたびに内から他者を嘲り、見下し、私こそが特異だと主張するような言動を吐き出しそうになる。特別な才能は無い。強い肉体も無ければ、賢さも無い。あるのは恵まれた容姿と肥大化したプライドだけ。なのに自分が他者より上でなければいけないという、分不相応な考えが私を支配する。一体何が私を醜くしてしまったのか。

 傲慢さは生まれつきではない。ある時までは、他者と自分を比較することはなく、私を含めた全ての人は横並びであると考えていた。しかし、成長するに連れて競争や比較などといった、避けては通れない門をくぐらなければならない。私はこれを酷く嫌悪していた。ただ、仲がいい人と楽しく生きていたいだけなのに、なぜ競争しなくてはいけないのか。最初こそ、競争なんておかしいと子供ながら競争を否定し続けた。具体的には勉学において努力をしなかった。だって、そうだろう?生きるための知識は学ぶべきだが、学歴のための知識なんて不要だ。大人たちは決まって「良い大学に入って、良い会社に就職して、多くのお金を得て幸せになる。だから、勉強しなさい。」と言うが、私的には下らな戯言だ。本当に汚い。醜い。身の丈に合わない理想を抱くだけに留まらず、幸せを押し付けるなんて。だから、競争に必要な努力をしなかった。けれど、周りはそれを許さない。才能が無い癖に努力をしないなんて何事かと。多くの人間に失望、諦観、侮蔑、非難された。家族、親友、後輩と先輩、後輩と先輩の親や兄弟にまで。「お前は不要」、「お前より親友の方を息子に弟にしたかった」、「役立たずで存在価値なんて無いのになんでいるの?」なんて罵詈雑言を浴びせられた。これに堪えた私は、他人がどう思うかを己の人としての価値の基準にして、周りの人より上でなくてはならないとそう考えるようになった。社会的じゃなくても能力的に上でいることを誇示すれば、自分という人間が他者に侵されずに済む。

 結論言うと、傲慢な自分がいても良いのではないだろうか。今までは傲慢な自分を恥ずべきことと捉えていた。だが、その性格が罪であろうとも、私は否定しない。大事なのは自分をありのまま受け入れることだ。決して、咎めることでも悔いることでもない。人の性格は簡単に変わりはしない。だから、その性格のおかげで独りになろうと、傷つかないのなら否定しない。自分自身を卑下し否定するくらいなら、嫌われて傲慢な自信を持って生きていこう。